づんだ餅

 づんだ餅は祖母の大好物だ。枝豆をやわらかくなるまで塩ゆでして鞘から出し薄皮もとり、つぶしながら少しずつ摺っていくと豆の青い香りが立ち、塩を加えると翡翠色があざやかに映え、砂糖を入れるとなめらかさが増してさらに艶やかになる。熱々の餅と和えると塩味が活きて甘味が際立つ。たいそう喜んでたくさん食べてくれた。素朴でやわらかな風味のづんだ餅は、着物姿のおおらかな笑顔を想い起こさせてくれる。

 東北の生まれで、電話では会話の調子になぜかお国訛りがあらわれてくるのが子ども心に面白かった。気が強く家に来る業者とよく勝手口でよく喧嘩していた。料理が得意で正月にはブリやハマチを手際よく三枚に下ろして刺身にし、水餃子は皮から百も二百も作り、食卓に賑わいをはこんでくれたものだ。裁縫も上手で仕立ててくれた浴衣の肌ざわりがときによみがえる。人懐っこく、いつも近所のお宅にあがって話しこんでなかなか帰ってこなかったことや、駅などで知らない人に誰かまわず気兼ねなくよく話しかけ、ちょっとはらはらさせられたりしたことなど懐かしい。心ひかれたひとのどこかに、そんな祖母の無邪気で屈託のない姿を見ていたような気がする。

 戦前は満州と朝鮮とに暮らしていた。四人の息子をもうけたが、ひとりは病気から耳が聞こえなくなり、子育ては心労をともなうものであったと思われるが、聾者の社会的な支援活動にもかかわり、気丈さを失うことはなかった。現地から引き上げる時期にはかなり怖い体験をしたようで、それから何十年も経っているにもかかわらず、夜になると部屋の障子の前に、誰かが襲ってきても備えられるようにと家具を移動してバリケードを作り、母によく叱られていた。

 小学校低学年のころは同じ部屋に寝ていた。熱を出して臥せっているとき布団にはいってきて、風邪がうつってお前の熱がさがりますようにと、呟きながら額に手を当ててくれたことは忘れられない。風呂は祖母と弟と三人一緒だった。湯船の中で童謡やいろいろな唄を歌っていると、目を細めて褒めてくれるので嬉しくなって調子に乗り、いつまでも歌っていて長風呂になってしまったものだ。

 仕事を始めてから、あるとき帰宅するのが遅くなりそっと家に入ったら、寝床から名前を呼ばれ何か言っている。聞こえなかったので顔を近づけたとたん、酒臭いと、飲み過ぎてきたことがバレてしまった。小さな声で話しかけたのは自分に近づけさせるための策だったのだ。まんまと証拠を押さえられてしまった。

 晩年は記憶がぼやけることが増えた。茶の間で目の前に坐っているとき、眼鏡をずりさげて、あんた誰、と険しい顔でいきなり言われ、分からなくなってしまったのかと、悲しかった。とっても可愛い孫がいてね、と懐かしそうに頬をゆるめ話す姿に、涙を禁じえなかった。

 久しぶりに帰京したとき些細なことでも父が祖母につらくあたっていた。そのふるまいに腹を立てて席を立ち、滞在半ばで仕事場のある地へ帰ってしまったことがある。苦笑いし見送る父に憤慨していたが、父にもまた老いの影がしのんでいたのだろう。その父が急逝したとき、何が起こったのか把握できず、死んじゃったのがわからないのと詰る母の悲痛な叫びにも、ただあいまいな戸惑いの微笑みを返していたが、しばらくしてから息子が先に逝ってしまったことをようやく理解し、涙を流していた姿がやるせない。

 亡くなる前、人生初めての入院をした。出来る限り時間をつくり泊まり込みもしながら三カ月近く看病した。口から食事が出来なくなり鼻からの経管栄養になったが。苦しかったのか自分で抜きとってしまい、それをくりかえすので手首をベッドの柵に縛られてしまった。付き添っているときはそれをほどき、管を抜きそうなときは制止していたが、目を離したすきに管を外してしまっていた。息が楽になり、スッキリして心地よさそうで、その穏やかでホッとした表情を妨げる言葉などかけられるはずはなかった。医師の処置に不手際があり、そのショックで話すことが出来なくなり声をかけても反応が乏しく弱っていった。

 スケッチブックに鉛筆を渡すと、自分の名前や意味不明なことを書きなぐる。今でもときおりそれをながめてみる。斜めに流されるような筆跡で、ハヤクシテクダサイ、と書かれていたのは、ハヤクダシテクダサイ、であったかもしれない。こころに痛い。あの日、病室から去ろうとすると何日かぶりに眼をしっかりとあけ、真直ぐにこちらを見つめ、取った手を力強く握り返してくれた。次の日の明け方、九十三歳の天寿を全うした。