Both a little scared                     Neither one prepared

白い花びらは

語りえぬことば

棘をたどり

ふりつもる

 

若草色の歌声は

光つよく朝をつげ

鐘の響きにおくられて

碧き谷間にこだまする

 

扉の鍵は胸のなか

だれもふれえぬ鉛色

祭りのあとの空車

白馬に曳かれ闇をゆく

 

歩みためらう足取りは

地をたしかめるあかし

うけとめるてのひらに

いのちをきざむ紅い花

 

カナリア色の風そよぎ

瞳のなかにうつる影

雪の調べは春さそい

とざされた詩がよみがえる

私への手紙

息をとめてはいきられぬ

ゆっくりしずかにはくことだ

知らないものをはくことだ

抱えていないではくことだ

ゆるゆるゆるゆる

緩んででこないか

はにはにはにはに

柔らかくなる

 

いつものけしきが新しい

いつもけしきは新しい

光りがちがうせいじゃない

影がおどるせいじゃない

夜はいつでもそばにいる

心配するにはおよばない

昼になっても夜はある

明日になっても夜はくる

 

早い遅いはもういらぬ

足ふみしめて土を蹴る

地面の下にはなにがいる

目にはさだかにあらぬとも

こちらをみている草の精

雨がしとしと降ってきた

風がだんだん強くなる

肚の中には土石流

昨日と今日が交ざりゆく

 

 

風に舞い 雨に唄い

若芽の緑は色を深め

陽を浴び 影を与え

紅の羽根となり

乾いた響きを残し

幹に力蓄え

雪にいのち温める

 

蕾微笑み 重く満ちて

ひとつふたつ 綻び

花弁たわわに花祭り

紺碧の空を彩り

手をつなぐ幼な児に

はにかみ色を刻む

子どもは桜の贈り物

咲くは人 人は桜

 

桜の園は花曼陀羅

死者も生者も花宴

枝垂れ桜は春の鞭

空を切り裂き血で染めて

熱き血潮の珠となり

この世とあちらを橋渡す

 

 

囁く石

だれも振りむかないとき

そっと見まもる空

 

だれも聞いてくれないとき

しずかに耳かたむける道

 

だれも声をかけないとき

ちいさく囁く石

 

だれも伴に歩くもののいないとき

ゆれる草むらを行く蝸牛

 

だれも支えてくれないとき

さりげなく肌をさしだす樹

 

だれも抱きしめてくれないとき

あたかくつつむ陽の光

 

だれも背中を押してくれないとき

やわらかに訪れる風

 

だれも諍いを止めないとき

とうめいな音を奏でる笛

 

だれもいないとき

きみのなかで瞬く星

『夢十夜 第一夜』(夏目漱石)寄せて

泪の雫は
海の鍵盤を爪弾き
ふるさとの空へ
旋律の虹をかける

引く波
往く波
百年の諧調をおりなす

それは欠片の記憶
億光年のしらべ

永遠の焔をたたえる
密かやなかなしみ

瞼閉じれば
涯しなき今

星が纏うは
薄衣

闇に抱く
鴇色の花影

十一歳

 小学校のはじめの四年間、何をしていたのだろう。病欠が半分ちかくあったかもしれない。授業では下を向いておとなしくしているばかり。授業の合間に外で遊ぶこともまったくなかった。ひとり教室でぼんやりしていたのだろうか。
 十一歳になった。身長が伸びたせいだけではない、身体の奥から止め処ない力が湧き起ってきて、このままではいけないという声が聞こえ、促され、授業中に思い切って手を挙げ立ち上がった。身体に芯がとおり、地に足がついていた。若緑の萌える梢につつまれた校庭に飛び出してみた。風を切り、砂を蹴って疾走する。誰もついてこられない。冬になっても半ズボン姿で、雪が降ろうが氷が張ろうが、走り廻っていた。
 五年生では放課後、校内を見回る役割があり、六年生の女子と組むことになった。不意にあらわれた真珠のような笑顔は、スカートがゆれる身のこなしととけあい、戸惑う心は知らぬ空へ運ばれていってしまった。時はとまり、甘く切なく遠い憧れにみたされた。
 顔立ちや姿かたちやしぐさがそっくりな、北国からの転校生が入ってきた。桃色のカーディガンがよく似合う。夏に海辺での特別授業があった。食事時間、好き嫌いが多く普段の給食も残しがちであったが、その眼の前ではやせ我慢するしかない。思い切って今まで手をつけたこともなかった食材を口にすると、美味しい。世界が広がった気がした。
 入浴の時間、ぞろぞろと行く男子生徒の列の最後について風呂場に向かうと、遠くに一糸まとわぬ姿が光り、暖簾が翻り、消えた。顔は見えなかったが、誰であるかは分からないはずはなかった。体育館での全校行事のときだろうか、壁際に片づけられた机に腰かけ見下ろすと、手招きして口元を見ろと合図をしている。上唇と下唇が渇いて、くっついてしまったのを嬉しそうに指差す。その無邪気な振る舞いがまぶしく、微笑みを返せたのかおぼえていない。

づんだ餅

 づんだ餅は祖母の大好物だ。枝豆をやわらかくなるまで塩ゆでして鞘から出し薄皮もとり、つぶしながら少しずつ摺っていくと豆の青い香りが立ち、塩を加えると翡翠色があざやかに映え、砂糖を入れるとなめらかさが増してさらに艶やかになる。熱々の餅と和えると塩味が活きて甘味が際立つ。たいそう喜んでたくさん食べてくれた。素朴でやわらかな風味のづんだ餅は、着物姿のおおらかな笑顔を想い起こさせてくれる。

 東北の生まれで、電話では会話の調子になぜかお国訛りがあらわれてくるのが子ども心に面白かった。気が強く家に来る業者とよく勝手口でよく喧嘩していた。料理が得意で正月にはブリやハマチを手際よく三枚に下ろして刺身にし、水餃子は皮から百も二百も作り、食卓に賑わいをはこんでくれたものだ。裁縫も上手で仕立ててくれた浴衣の肌ざわりがときによみがえる。人懐っこく、いつも近所のお宅にあがって話しこんでなかなか帰ってこなかったことや、駅などで知らない人に誰かまわず気兼ねなくよく話しかけ、ちょっとはらはらさせられたりしたことなど懐かしい。心ひかれたひとのどこかに、そんな祖母の無邪気で屈託のない姿を見ていたような気がする。

 戦前は満州と朝鮮とに暮らしていた。四人の息子をもうけたが、ひとりは病気から耳が聞こえなくなり、子育ては心労をともなうものであったと思われるが、聾者の社会的な支援活動にもかかわり、気丈さを失うことはなかった。現地から引き上げる時期にはかなり怖い体験をしたようで、それから何十年も経っているにもかかわらず、夜になると部屋の障子の前に、誰かが襲ってきても備えられるようにと家具を移動してバリケードを作り、母によく叱られていた。

 小学校低学年のころは同じ部屋に寝ていた。熱を出して臥せっているとき布団にはいってきて、風邪がうつってお前の熱がさがりますようにと、呟きながら額に手を当ててくれたことは忘れられない。風呂は祖母と弟と三人一緒だった。湯船の中で童謡やいろいろな唄を歌っていると、目を細めて褒めてくれるので嬉しくなって調子に乗り、いつまでも歌っていて長風呂になってしまったものだ。

 仕事を始めてから、あるとき帰宅するのが遅くなりそっと家に入ったら、寝床から名前を呼ばれ何か言っている。聞こえなかったので顔を近づけたとたん、酒臭いと、飲み過ぎてきたことがバレてしまった。小さな声で話しかけたのは自分に近づけさせるための策だったのだ。まんまと証拠を押さえられてしまった。

 晩年は記憶がぼやけることが増えた。茶の間で目の前に坐っているとき、眼鏡をずりさげて、あんた誰、と険しい顔でいきなり言われ、分からなくなってしまったのかと、悲しかった。とっても可愛い孫がいてね、と懐かしそうに頬をゆるめ話す姿に、涙を禁じえなかった。

 久しぶりに帰京したとき些細なことでも父が祖母につらくあたっていた。そのふるまいに腹を立てて席を立ち、滞在半ばで仕事場のある地へ帰ってしまったことがある。苦笑いし見送る父に憤慨していたが、父にもまた老いの影がしのんでいたのだろう。その父が急逝したとき、何が起こったのか把握できず、死んじゃったのがわからないのと詰る母の悲痛な叫びにも、ただあいまいな戸惑いの微笑みを返していたが、しばらくしてから息子が先に逝ってしまったことをようやく理解し、涙を流していた姿がやるせない。

 亡くなる前、人生初めての入院をした。出来る限り時間をつくり泊まり込みもしながら三カ月近く看病した。口から食事が出来なくなり鼻からの経管栄養になったが。苦しかったのか自分で抜きとってしまい、それをくりかえすので手首をベッドの柵に縛られてしまった。付き添っているときはそれをほどき、管を抜きそうなときは制止していたが、目を離したすきに管を外してしまっていた。息が楽になり、スッキリして心地よさそうで、その穏やかでホッとした表情を妨げる言葉などかけられるはずはなかった。医師の処置に不手際があり、そのショックで話すことが出来なくなり声をかけても反応が乏しく弱っていった。

 スケッチブックに鉛筆を渡すと、自分の名前や意味不明なことを書きなぐる。今でもときおりそれをながめてみる。斜めに流されるような筆跡で、ハヤクシテクダサイ、と書かれていたのは、ハヤクダシテクダサイ、であったかもしれない。こころに痛い。あの日、病室から去ろうとすると何日かぶりに眼をしっかりとあけ、真直ぐにこちらを見つめ、取った手を力強く握り返してくれた。次の日の明け方、九十三歳の天寿を全うした。