風の音 龍の耳

 インターネット上のやりとり、キーポードから打ち込まれた文字だけではなかなか感情は伝わらず誤解しがちだが、それでもやはり、「感じられる」と「聞こえる」の中間の働きのようなものによって、表された言葉から相手の心の動きを、苛立ち、親愛、悲鳴、歓び、苦しみなどを、推し測れるときがある。おそらくネットの向こう相手もそうなのであろう。線の繋がらぬ電話の受話器を耳にするとき、その人は大切な人の声を確かに聞いている、そしてその声が途切れ静まる時の間に、さらに小さき声があることに氣づく。おそらく受話器の向こうの相手もそうなのであろう。ピアノの鋼の糸を叩く羊の毛のハンマーは響きの森を現出させる。働きかけるものと働くもの、実はどちらがどちらなのかはわからない。

 聴覚を喪っていることをなぜ「龍」と「耳」で表すのだろう。あまりに耳が大きく、すべてが聞こえることを聾といい、すべてを聞き入れる大いなるものは、ただ静けさと共にあるに違いない。頬に指先を添え、片足を膝に憩い微笑む弥勒菩薩が、初めて出る地を共にする、隣國の佇まいに向かい合う。重ならぬ時もあれど、その姿は近しくあった。人のみならずあらゆる生類の、生者の声、死者の声、内なる声も逃さずに耳を傾けつづける。その営みを、海を隔て見護る者がいたのだ、そして見護られていたのだ。古の都にて、ひとりそこに立ち見つめ聞くことを、見つめられ聞かれることを、念う。微笑むのは我か彼か、誰が我で誰が彼か、風の中に応えがある、凪の中に応えがある。

天の水 分かつ

風笛に導かれ漆黒の闇を進む光の珠、銀の毒水を代わり受け、麗明の海に逝きし者の歩みか。天透ける女人の鎮魂歌、言葉奪われし影達の眼差し篤く包みて、古の黒き輝石の邑に染み入り、語る言葉その姿ひそめ語らざるものとの旅に誘う。水を分かつ地に育まれし童女は、息を閉ざす殻に覆われし美しき星を愁い惑い哭してひとり坐し、冷たき風に揺れる葦となることを預かる。膝に軽き子を守る煩悩深き翁、かそけき肌伝う温もりに己の魂魄護られ、陽射し享ける畳には恵みの音なわざることなし。地に花弁を希む指は祈りの刃となり、引き裂くは天空の動かざる時。深海の底に囚われ臥す人が見るは絶対零度の宙か蓮花の園か。凪に磯遊びし、もてなし集うものの差し延べる手を愛ずる。小さく弱きものなれど、天の鼓動遍く始原の海よりの使者なり。その遥かなる託けに黙し、織り成す波風に揺り出され、曇ることなき瞳携え旅立ちし姿想い、こころ静まりいのち咲く時来たれとただ俟つのみ。

光の扉

見よ

星の旅立つ久遠の扉を
楽の音薫る天上の窓を
深淵の海に埋もれし新生の泉を

扉の鍵は何処に

明日なき海空に散りし瞳か
ただ花を手向け黙し跪く姿か
哭する背中に差し伸べられた手か

それはまた

走抜けた少女の咲きこぼれる笑顔か
闇こそ包む愛しき影か
食卓に添えられた一輪の風か

耳を澄ませ

ふたりに託されたことばに
古の書物に預けられた調べに
懐かしきふるさとの歌に

いまここに

切り出された静寂の畔を行く
遅く小さき歩みの中に
光立ち

迷い畏れし
漆黒の青に
夜の虹懸れり

 

雑司ヶ谷にある誰だか分からない人の墓、―――これも私の記憶に時々動いた。私はそれが先生と深い縁故のある墓だという事を知っていた。先生の生活に近づきつつありながら、近づくことの出来ない私は、先生の頭の中にある生命の断片として、その墓を私の頭の中にも受け入れた。けれども私に取ってその墓は全く死んだものであった。二人の間にある生命(いのち)の扉を開ける鍵にはならなかった。寧ろ二人の間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった」(上 十五)

(夏目漱石『こころ』)

与えられた経験

舞い降りた手触りは、紅の衣に包まれた過ぎ去らぬ時。薄れかけた旧き文字に哀惜と歓びの詩あり。海原遥か心結ぶ光の街は宝の箱に収まりきらず。鈴鳴らし道行く牛車に花飾り、見上げる梢に朱の鳳、いま飛び立てり。疾く足高く明日を越え極まることなし。受け継がれた微笑みは遍く溢れ心を包み、ふるさとなき者へ帰りゆく地を恵む。ひとりはひとりに非ず、今は永遠のこと。耳を澄ませば遥かな歌声、目蓋閉じれば躍る姿、そこにあり。


フランクル夜と霧』)

内なる色

光知り初めし幼子の心に宿るは何色か

億光年の沈黙から雫おちる音の誠を写す泉に
懐かしき面影と恥じらいの微笑みが波紋を奏でる

土を耕し育むその見えぬ目は蒼穹の天を仰ぎ
歩みゆくその後ろ姿は時の刻印を知らず

眠り深く明日なき道を辿れば
遠く確かな大河の畔

星秘む夜空に彩り渡る二重の虹
悲しき夢を喜びの歌に編む

ひとり立つは天空の底
ふるさとの響きここに集い遊ぶ

色は己の色を知らず
その色はまた尽きることなし

 


「自分自身の色調の調和から、自分のパレットの色から出発せよ。自然の色から出発するな(No.429)」
「自然から学ぶこと、自然と格闘する事、僕はこれを放棄しようとは思わない。・・・先ず自然に追随しようとする望みのない苦闘から始める。何もかもうまくいかない、遂に自分のパレットから静かに創造するというところに行きつく、自然がこれに同意し、これに従う。併しこの二つのものの対立と言っても、別々に二つが在るというのではない・・・(No.429)」
小林秀雄ゴッホの手紙』)

雪のソナタ

白き野に原初の音を刻み
織りなす響き地を染める

歩を休めれば花灯り
潤いの匂い寄り添いて

窓辺より冬の祈り零れ
はく息鎮み風に結ぶ

穿ち尽くせぬ年の輪ひとつ
はるか来し方の空を眺む

屋根に降り積む訪れに
動かざる心ふと明日を夢見る

漆黒の炎に
深淵の宴あり

日々を引き受けし背に
顔を上げ胸を開く

遠くを眺むる者を
見守る静かなる眼差し

節くれ立つ指に応える
微かなる揺らぎ

地の底より
飛び立てる翼あり

道は果て無し
今も果て無し

小林秀雄ゴッホの手紙』十九頁)