おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらんかも

 声を聞けばよい。

 

 俯瞰することも声高に語ることもいらぬ。上から見下ろさず、無限の時とともに果てない大地を見渡し、静かに微笑みながらとどまり、総てを感じる。無限の彼方、あちらからの声、声なき声に耳を澄ます。砂地に刻まれた小賢しい言葉は波が連れ去る。

 

 沸かされた水は湯となり、湯の氣となりそこに在り、そしていない。陽を享けた樹木の梢は、風に揺れ、それを留めず。遥かなるはからいは、はからうことを知らず、ある。

 

<『遠野物語柳田国男

静かな場所

 

 不肖の弟子にとって、師匠はありがたい。ふと怠りがちな大切なことを繰り返し、その必要なときに身に染むよう指摘してくれる。こちらを憚り誰もが言ってくれないことを直截に伝えてくれる。破門寸前になったり、あるいはこちらから異を唱え、別の道へと袂を分かつことを考えたりしたこともあった。

 最近の稽古のとき、助手として前に呼ばれその少しの合間、肩に手をおきながら皆へ説明をされていた。その手は温かく、静かであった。

 

夏目漱石『こころ』>

ときとそらのなかに

 そのピアニッシモは、沈黙に灯された小さな雫の如く、静かにその波紋を広げ、心の扉を開放してくれた。

 盲目の音楽家とは何者か。原初生命体であった何者かは、藍鉄色の深海に育まれた響きを全身で受けとめていたのではないか。母の海に抱かれた何者かは、生まれ出ずる未だ見ぬ世界を全身で受けとめていたのではないのか。

 暗闇の中に立つ光の使者は、その指先に音ずれた懐かしい奇跡に、愛しみと歓びの不二の色彩を謳い、明日の空へ架ける。

 

(ピアニスト 辻井伸行

 

<『明恵 夢を生きる』河合隼男>