風の音 龍の耳

 インターネット上のやりとり、キーポードから打ち込まれた文字だけではなかなか感情は伝わらず誤解しがちだが、それでもやはり、「感じられる」と「聞こえる」の中間の働きのようなものによって、表された言葉から相手の心の動きを、苛立ち、親愛、悲鳴、歓び、苦しみなどを、推し測れるときがある。おそらくネットの向こう相手もそうなのであろう。線の繋がらぬ電話の受話器を耳にするとき、その人は大切な人の声を確かに聞いている、そしてその声が途切れ静まる時の間に、さらに小さき声があることに氣づく。おそらく受話器の向こうの相手もそうなのであろう。ピアノの鋼の糸を叩く羊の毛のハンマーは響きの森を現出させる。働きかけるものと働くもの、実はどちらがどちらなのかはわからない。

 聴覚を喪っていることをなぜ「龍」と「耳」で表すのだろう。あまりに耳が大きく、すべてが聞こえることを聾といい、すべてを聞き入れる大いなるものは、ただ静けさと共にあるに違いない。頬に指先を添え、片足を膝に憩い微笑む弥勒菩薩が、初めて出る地を共にする、隣國の佇まいに向かい合う。重ならぬ時もあれど、その姿は近しくあった。人のみならずあらゆる生類の、生者の声、死者の声、内なる声も逃さずに耳を傾けつづける。その営みを、海を隔て見護る者がいたのだ、そして見護られていたのだ。古の都にて、ひとりそこに立ち見つめ聞くことを、見つめられ聞かれることを、念う。微笑むのは我か彼か、誰が我で誰が彼か、風の中に応えがある、凪の中に応えがある。