「み」

<人間にとって自分の身体をどう見るかは、大きい問題である。自分の身体を非常に大切に考える人と、身体のことなど、どうでもいいという態度をとる人とがある。しかし、ここではそのような差ではなく、西洋のキリスト教的な考えによる、霊(スピリット)と身体という明確な分離と、わが国における「身」という存在のあいまいな全体性について少し述べておきたい。明恵にとって「身体」ということが実に大きい問題であったと思うからである(130)>

 

<市川によると、「み」は大和言葉であるが、漢字の「身」があてられるとともに意味の混交が生じ、どこまでが「み」本来の意味であるかよくわからないという。ともかく、現在においても「み」の意味するところはひろく、肉、身体のみならず、「生命存在」、「社会的自己」など多くのことをカバーするが、「身にしみる」、「身に覚ゆ」、「身にこたえる」などの用法が示すとおり、人間の「全体存在・こころ」を示す事実は注目に値する。つまり、わが国においては、身体と心という分離がそれほど明確でなく、両者を包括する「み」という概念が存在するのである。131)>

 

 樹木の緑が美しい。いつもの通り道、思わずことばを失い佇んでしまう。

 

 夜半、家に帰る途中、かなり大きな半透明の袋を一所懸命抱えた小柄な女性と、暗かったので顔は判然としなかったが、すれ違った。中身はお店の制服なのだろうか、コインランドリーへ向かうようだ。その姿に心打たれた。なんであったのか、ことばになろうとする「み」の垣間みせたふるまい、響鳴なのか。新緑のように慈しく、思ひ出のように愛しかった。

 

<『明恵 夢を生きる』河合隼男>