布団の中で寒気がして、深夜熱が上がるのを感じた。翌朝測ると平熱よりかなり高く、医者に行くと流行性感冒と診断され外出禁止を余儀なくされた。翌日以降は熱も出ず、このまま軽く終わると思われ、治ったのか確認のため、鼻もやや詰まるので、耳鼻科に行く。流行性感冒が完治したかの検査は行わないとのこと、鼻の詰まりも軽いと言われ、治療も薬の処方もなく帰る。
 その数日後再び寒気と熱があり、鼻詰まりがきつく、咳が激しい。違う型の感冒にかかったかと思ったが、とにかく鼻が苦しいので、前回とは違う耳鼻科を受診したところ、かなり重篤な鼻の急性疾患と判明した。
 同様の症状の経験は以前にもあったが、詰まるのは片側だけで、今回のように両側が塞がれることは初めてであった。息ができない。鼻をかむと粘性のどす黒い出血がある。一晩中咳が出て腹と背中が苦しく眠れない。味覚が常ならぬ状態で、料理を塩辛く感じてしまう。林檎しか受けつけない。ズボンのベルトの穴が一つ移動した。咳をしながら寝返りを打ったとき、脚の付け根を痛めかける。
 そんな状態が一週間ほど続いたあとの夜、仰向けになっていると、急に鼻が通った。呼吸が天空に通じている。爪先から指の先端、身体の隅々まで酸素が浸透していく。回復への足取りが確認できた。
 日に日に症状は治まっていくにもかかわらず、怠さからは抜けきれない。何百回もの咳ごとに、急激に身体を屈曲していたので、かなり腹筋に負担がかかり。背中も大きな痛手を負ったのだろう。
 想いは外へと誘われていく。

時の光(かげ)

 薄茶に古びた罫線紙に褪せたインクの変わり仮名がゆれている。傷んだ表紙を緋色の和紙で装い、擦れた頁の天地を切りそろえ、ほつれかけていた糸を綴じなおす。
 母が子ども時代を過ごした台湾について十代後半に書き留めた手記を、三年前、母が急逝した直後に発見した。葬儀の記録をのこすため、母がつけていた記録簿を開くと、最後の頁にはさんであった。三十数頁を一息に読む。そこには真っ黒に日焼けした少女が躍動していた。解読できない箇所は叔母の助けを借りながら文書に起こし直した。
 入学後三か月で離れることを余儀なくされた高等女学校は女子高校となっている。
 前回の訪問の折、日本から送った手記はすでに中国語訳され、その後、原本の写しと日本文とを合わせ合本として出版された。帰国後ほどなく女子高校から母の姿もある学級写真が送られてくる。違う学級はもちろん、他の年代も現存するものは一切なく、何日も探して、この写真一枚だけ見つかったのだと知らされた。
 今回は創設百周年記念式典に参列した。朝早く学校に着く。校舎の玄関と窓枠が白く縁どりされていて、雨に洗われ風に磨かれた赤煉瓦造りを際立たせ、正門からの景観が映える。式典会場の陸上競技場に入る。見学のつもりであったが、貴賓席に招き入れられて紹介までされた。戦闘機が爆音を残し飛び去って行く。東京大空襲に前後して台南もまた米軍の空爆を受けた。女子高校近くに戦前からある百貨店の屋上に、記録が石碑として残されていることを思い起こす。
 式典が始まった。鼓笛隊のあと小銃を携えた儀仗隊が行く。白いシャツに赤紫のベスト、白のスカートとブーツ、帽子の房と肩章がオレンジ色に輝き、小銃を操る動きが華やかに同調する。ふりむくときの足元が愛らしい。各界で活躍する卒業生の表彰、記念碑の除幕式とつづく。室内に会場が移ると、学校の歴史紹介、記念品の授与式があり、校歌と記念歌が合唱と管弦楽で奏でられた。
 翌日、市内観光の予定集合時刻に学校へ着くとまだ誰もいない。ひんやりとする空気につつまれた学内を歩いた。校舎をつなぐ通路には、開校当時から現在にいたる制服の変遷を見ることができる。石畳がつづく学生街を散策すると、正門へ向かう道の壁に刻まれた女の子の影が手を振っていた。
 校友会理事長晩餐会には、日本から訪れた九十二歳をはじめとする卒業生数名と、縁のある家族が招かれた。手記の原本を鞄から出し手に取る。手書きの文字を見返し手ざわりを確かめ、理事長に手渡す。歴史資料館に保存されることになった。
 帰国して記念品を供えた。百年誌の包みをとき、頁を繰ると、女学生の満面の笑顔があった。

 

f:id:twbyw:20180127141426j:plain

てんとうむし

黒いものが手の甲で
うごめいている

手を強くふると
テーブルにおちて
足をばたつかせ
ひっくり返すと
指にしがみつく
弾くとおちて
もがいている

ようやく足が下になり
テーブルの端へ移り
見えなくなる

カップに湯をそそぐと
バタバタあばれている
掬うとくっつく
布巾にこすりつけると
歩き出し姿を消した

ティッシュペーパーを
取りだすと
また現れた